パッポン物語

パッポンの名前と評判はみんな知っている。バンコク第一の歓楽街、また世界でも知られた赤線地帯である。しかし、ほとんどの人はその名前がどのように付けられたかを知らない。パッポンを作り有名にした中国系タイビジネスマンのパーソナルヒストリーを...。
この物語の主人公であるウドン パッポンパニッチは前月の10月始め、79歳でバンコクホスピタルで亡くなった。彼は巨万の富を稼ぎ出す帝国を残した。それは今彼の家族たちに引き継がれ経営されている。彼の死はパッポンの終焉の始まりだろうか?はたまた、より発展するために運命づけられたものなのだろうか?
今バンコクを訪れるほとんどの外国の人たちは自分の希望に関係なく、観光場所に組み込まれているせいか一度はパッポンを訪れる。そして、夜には何百万バーツのお金がたくさんの露店、カウンタバー、レストランへ流れて行く。もちろん売春にも...。パッポンではセックスが売られている。しかしその前に、食事代、酒代、ダンス、ロックミュージック、ビデオパーラの代金が補助経費としてかかっている。この儲けは大きい。
今からちょうど50年前、パッポンと知られるこのエリアは荒れた土地で、チーク材で作られた家が1軒しかない場所だった。この家はバンコクのホンコンと上海銀行の本店だった。そして1941年から1945年は日本憲兵隊に徴収されていた。どのようにしてこの静かなバンコクの片隅が世界の歓楽街の1つに成っていったのだろうか。とても興味深い。
パッポンと言う名はもともと中国のハイナン島の中で、通りや人名で見られる。ここは南国なまりでハイラムとして知られている南支那海の島で、移民が何百年の間、タイに流れて来ていた。商才のあるタエチウ、カントニーズやハッカと知られる南中国からの華僑と同じである。
ポーンパット少年12歳も他の中国人と同じく夢を求めてバンコクに今世紀初頭、バンコクにやって来た。ポーンパットはサラブリ県で米を商いとする会社で働き始めた。彼は地方の農家から薬草を買い、バンコクのチャイナタウン.ヤワラートの雇い主の元へ運んでいた。彼は将来を考えて若い中国娘と結婚する。そして、1916年長男が生まれた。その子の名前がウドンである。
そうこうしているうちに、ポーンパットへ人生の転機が訪れた。それは成長するバンコクの建築産業にセメントを供給するため、サラブリにセメント工場が出来たことから始まる。この賢い中国人はセメントの働きには炭酸カルシウムがいつも必要だとすぐに気づいたのだ。ポーンパットはこれがこの地方でも集められることを知っていた。この肥えた稲作地帯の数フィート下にあるのだ。そして彼はすぐに小さいサプライビジネスを始めた。
彼にとって幸運だったのは、このセメント工場がチュラロンコン国王(ラマ5世)が先導するロイヤルプロジェクトだったことだ。このプロジェクトが大きくなるにつれ、ハイナン島の移民のビジネスも大きくなっていった。そしてロイヤルファミリの知るところとなり、その功績に対してナイトの称号が与えられた。“クン ルワン パッポンパニッチ”。後でこの名前はタイの新しいファミリネームとなって行く。
ハードワークと幸運にも恵まれて、 クン ルワン パッポンパニッチは彼の息子を最初はイギリスにそして次にアメリカへ留学させることが出来た。このため、ウドンは日本がタイへ侵攻した1941年にはタイの外、アメリカに居た。そこで彼はタイ自由化運動に参加し、日本のアジア侵略に反対運動を行った。そして1945年、彼は日本憲兵隊がシーロムの北部の例の家から退散した2,3ヶ月後に帰ってきた。
その土地と建物はホンコンと上海銀行には戻されず、1956年タイ政府によりオークションに懸けられた。ポーンパットはそこを当時59、000バーツ(約3、000ドル)で競り落とした。中国の何人かの友人にヤワラートからこんなに離れた土地を買うなんて頭でもおかしくなったかと言われたが、ポーンパットはそこをビジネスに利用するつもりはなかった。親戚家族が集って住む一角を作りたかったのだ。
この引退後の構想は彼の息子ウドン パッポンパニッチには理解されていなかった。ウドンはこれからのバンコクは大きくなり開発がこの一角まで伸びて来ると考えいたのだ。その衝突はポーンパットが彼の息子へスリウォンからこの区画までのつなげる道路を6メートルの広さでアレンジするよう命令したことから始まる。
ポーンパットはちょうどこの時フアヒンへ休養に出かけていた。彼は帰ってきて驚いた。ウドンは幅12メートルの道路を作っていたのだ。「あの時は父はとても怒って、私はもう家族から追い出されてしまうと思いましたよ。」当時を振り返ったウドン パッポンパニッチは語った。
ポーンパットが幾ら怒ってもしかたがなかった。もう広い道路が既成事実であるのである。彼はウドンにスリウォンから通りの終わりまで、両脇に店と家を兼ねる建物(ショップハウス)のアレンジをを任した。これがパッポン ソーイ1である。しかしここが今の歓楽街に変わってしまうとは当時、誰も考えていなかった。バンコクには赤線地帯はすでに在ったし、怪しげな薄緑のランプが掛かっている青線地帯も、ヤワラートや他の所にも在った。
このとき、ウドンはこの地区のショップハウスに西洋ビジネスマンを呼びたいと考えていた。彼は賃貸の時、デポジットをたくさんとり、月家賃を少なくする中国式のやり方を止めて、最初のデポジットを少なくし、月家賃を高くした。中国式が西洋人に合わないと彼は留学の経験から知っていたのだ。
彼の西洋に合わせたやり方は成功した。まず、最初の客は小さな航空会社のパシフィク オーバ.シー エアサービスであったが、すぐにシェル オイル、アメリカン ジェスターナ、日本航空が続いて入ってきた。そして日本との関係は1954年に強くなっている。このときタイを愛した旧日本兵によって「Mizu's Kitchen」がオープンしたのだ。
話を戻して、パッポンは航空会社がたくさん入ってきた。Civil Air Transport(CAT)、Air Vietnam、Air America(ここは後にチベットからインドネシアへの共産主義者の広がりを押さえるCentral Intelligence Agencyの所有となる。)などである。Air Americaでたくさんの合衆国兵士や冒険家たちがやって来た。そして彼らと共においしいワインや風俗業や歌なども入って来た。
パッポンにセックスサービス業が始まったのは1956年10月である。 Mizu's Kitchen 隣にバンコク オンセン マッサージ パーラーが出来たのが最初であった。当時を知る記者や作家アラン ダウソンによれば、ここで働く女性の多くは日本人だったと言うことである。客は主に日本の移住者とタイ警察の将校だった。
1958年にはこのオンセンは無くなったが、このエリアにはすでにバーが並び西洋風の東洋レストランがいっぱいだった。それはパッポンが今の歓楽街に変わる始まりだった。
名前が知られるのは1966年にバーナード トリンクがパッポン地域を、本「バンコク世界」に“バンコクの不夜城“として、バーやレストランのリストを載せてからだ。小さいリストであったが、それによりパッポンは大きくなりバンコクの他の歓楽街を追い抜き、世界でも有名になっていった。
1960年代はピー.バー(お化けバー)の時代だった。お化けはバーで働く女たちを言う。彼女たちは全くバーから給料を貰わない。正式に雇われてはいないのだ。代わりに彼女たちは客たちに個人的サービスをしてチップを貰うのだ。しかし、お化けバーは減り始め、1960年終わりには給料制が始まり1970年の始めにゴーゴーバーが始まってから無くなってしまう。
パッポンセックス産業の成長はベトナム戦争と重なって始まった。それはビジネスとエンターテーメントの地域をバーを本拠地とする赤線歓楽地帯に変えてしまった。パッポンのソーイ1は1969年の終わりには5件だったバーが1970年代の終わりには、100件以上にもなり、それからも数は増え続けた。
その現象で、驚くこともないが、そこを借りていた航空会社や他の会社は、長期賃貸契約をしていたタイダヌ銀行以外は当然のことながら出ていってしまった。タイダヌ銀行も去年とうとう出ていった。そしてそこはゴーゴーバーに変わった。
ウドン亡き後もパッポン通りは今までのやり方で残り続けるのであろうか。パッポンパニッチ一族はまだこのエリア全てのオーナであり、ウドンの2人の妹ソムタウィンとブーンウィンが管理している。彼らは言う「私たち家族は団結しています。みんながお互いにうまくやっています。ウドンが亡くなっても今すぐにパッポンを変えることはありません。」
彼らが保証しても今のままでパッポンは残り続けることができるのであろうか。世界で有名なナイトライフエリアとして多くの観光客を呼び、年間に何百万ドルをタイ経済にもたらしている。しかし、エイズの時代の中、だんだんと社会の不平等を利用してセックスビジネスで儲ける害悪を気づく者が増え始めている。豊かになって行くタイでは急速にパッポンが時代錯誤で、国の悩ます物になって来ているのではないだろうか。
今のままでパッポンは続いて行くのかと言う疑問の答えは「Yes」とも言えるし、「No」とも言えるだろう。パッポンの稼ぎ出すお金が道徳や健全な社会へと言う意見を黙らせてしまう。しかし、この土地の価値を考えると変わっていってもおかしくない。50年前3000USドルで買われたこの土地は今や数百万ドルの価値がある。しかしパッポンの建物はウドンが1950年代に建てたままのショップも幾つかあるし、この地区にある多くが2階建てである。
高沸するシーロムの賃貸料で各店の財政はどれくらいあと持ちこたえることができるのであろうか。収支で考えればパッポンは今のかたちから変わらなければならない。それはバーやマッサージパーラがシーロムの会社組織に変り、全てが鏡のようなガラスとコンクリートで出来たバンコク.ウオールストリート.ビルディングに変わることかもしれないが...。
上と別の考えとして、再開発されるエリアのある部分は数階建てのエンターテイメント.モールになり、隣の日本エンターテーメント.エリアのタニヤ通りと似たものになるかもしれない。
パッポン通りをそのままに続けるのであれ、変えてしまうのであれ、中国系タイ人の典型であるパッポンパニッチ一族は少しの先見性とハードワークによりきっと成功を収めることだろう。