日本の第二次大戦中、原子爆弾作成計画

大戦中、日本が原子爆弾を作っていた証拠

第二次世界大戦が終わりのころドイツ潜水艦NAZIが捕獲されニュウハンプシャ州のポーツマスに着いた。このとき潜水艦に積まれていた荷物の正式発表はなかった。

この潜水艦の目的は当時極秘にされていた。後に発表されたが潜水艦は原子爆弾を作る原料となるウラニウム酸化物を日本へ向けて運んでいたのだ。潜水艦には日本人将校2名が同行していた。しかしポーツマスへ連行される間に自決してしまった。

それから2ヶ月後、最初の原子爆弾がニューメキシコの砂漠で大音響とともに完成した。これが日本の2つの都市に落す原子爆弾のもとである。

このとき日本もまた自国の原子爆弾を作るべく動いていた。この爆弾のことは誰も知らされず公表もされていなかった。しかしその証拠は残っている。
アドルフ ヒットラーが自殺した後まもない1945年5月19日に北大西洋で捕らえられたドイツ潜水艦のウラニウムである。

証拠資料の公開

今その資料が極秘事項からはずされ詳細が明らかになっている。資料によれば10箱に入った560Kgのウラニウム酸化物が日本軍に送られる予定だった。

「ドイツは崩壊した。彼らは多量のウラニウムを保管していた。彼らの中の何人かがウラニウムを日本へ持って行くことを考えていたのだ。」、カリフォルニア大学の物理名誉教授ハーバート ヨーク氏は語っている。

ドイツのテレビ局Zeit−TVは自決し、水葬された日本人将校について当時の船員にインタビューしている。「日本人将校は自決する権利を強く主張していた。多分秘密を守るためだろう。」と彼らは言う。

押収されたウラニウムはテネシー州のオークリッジに送られた。そしてアメリカの原子爆弾プロジェクトマンハッタン計画に使われと思われる。

「これらのウラニウムの一部が1945年8月6日広島の落とされた原子爆弾であった可能性もあるかもしれない。」とUSエネルギー.デパートメントのスキップ ゴスリングは言う。しかし1945年8月9日に長崎に落とされた原爆はウラニウムでなくプルトニウムをもとに作られている。

日本は原子爆弾は完成できたか?

当時日本が新型爆弾を作ろうと苦心していた事実はもうすでに知られていた。しかしどこまで完成していたかは不明のままである。

また日本に原爆投下を決めたトルーマン大統領が日本の新型爆弾計画について知っていたかどうかもまた不明である。
マンハッタン計画に参加した物理学者たちは、日本の原子爆弾作成プログラムについて戦争が終わるまで知らなかったとインタビューで答えている。

「誰も知らなかったと思う。」とヨーク氏はサンディエゴで答えている。「日本が何か計画をしているとは考えてもいなかった。私たちが憂慮していたのはドイツ方だった。」

日本が新爆弾を計画していることがトルーマンに原爆投下の決断をさせてしまったのだろうか?

「もし明らかな証拠があったとしても、それは爆弾を使ったことの非難を和らげようとしてやっていることだ。」原爆反対グループ “ロス アロマス“に30年以上働いているスティブン スタッダート氏は言う。また同グループの研究班グレッグ メロー氏は「全く見当違いもはなはだしい。」とこの話しを非難している。

広島への原爆の死傷者は約13万人、長崎では7万5千人が死傷している。このときアメリカ軍の上層部では日本へ上陸した場合、約200万の命が失われるだろうと予測していた。

メロー氏は日本の原子爆弾は恐怖を感じさせるほど進んではいなかったと主張する。しかし“日本極秘戦争“の著者ロバート ウィルコックス氏は本の中で「新型爆弾について日本はドイツより進んでいたかもしれない。実際の証拠はそのことを示唆している。」と言っている。

ウィルコックス氏は言う「我々は戦争中に日本は爆弾の開発を続けていたことを知っている。もし完成していたならば戦争は終結しなかった。我々が入手した資料ではそれを“神風“に積んで駆逐艦に特攻させるつもりだったようだ。」

1945年8月15日日本は降伏した。その後アメリカ占領軍は5つの日本製原子核破壊装置を発見している。これはウラニウムから核分裂物質を分離することが出来た。アメリカ軍はすぐに破壊し東京湾へ捨ててしまった。

ウィルコックス氏は1995年新たな極秘文書の公開をもとに彼の本を改訂した。それによれば日本は他に6つの大型分離器を作っていたと言うことだ。

ほとんどの歴史家や科学者は、日本の原子爆弾は完成にはほど遠かったと言っている。「我々は当時何百もの大分離器を持っていた。」と引退したロス アラマスの科学者ジョン ホプキンス氏は言う。「我々は低い抵抗コイルを作るためフォート ノックスからの銀の板を使って何百もの大分離器を作った。ウラニウムからU−235を取り出すため、これを24時間稼動させていた。そして4個の原子爆弾に相当するU−235を作り出すことができた。これは原子核破壊装置となるものだ。」

「当時、もし日本が十分な量のウラニウムを持っていたとしたら我々は驚いたかもしれない。しかし日本が原子爆弾の完成に近かったと言うのは全くナンセンスだ。」とホプキンス氏は言う。

日本軍の原子爆弾開発

戦争中の原子爆弾の開発はヨシオ ニシナ中心に行なわれていた。彼は若いとき、原子についてのパイオニアであるニール ボアとコペンハーゲンで一緒に働いていた。

USジャーナル サイエンスによれば彼の助手であったマサ タケウチは日記に1日当たり300ミリグラムのウラニウムを得るため何百トンものウラニウム石を処理していたことを書いていたと言うことだ。

日本の科学史の専門家テツ ヒロシゲによると日本の原子爆弾予備実験は1940年に始まったらしい。この実験はF号(No. F 「Fission-分裂 からFをもじった])と呼ばれ1942年には京都で本格的な実験になった。情報によると最初この実験に日本軍は関与していなかったらしい。
そして1978年雑誌サイエンスではこの日本の原子爆弾の実現性について全くなかったとしている。

ウィルコックス氏は「その後日本軍部が研究を引き継いでいたことが資料から判断できる。」と言っている。この研究には日本工業界も参加し、大型の分離器を完成させた。また日本軍はウラニウムを捜すため、およそ2500万US$を中国につぎ込んだ。

ウィルコックス氏とチャールス ストーンの研究者の調べた資料によれば日本は空爆が始まると、この研究所を韓国半島に移したと言うことだ。ポストワーの資料ではアメリカが今の北朝鮮フングナム(コナン)にある日本プラントを原子爆弾研究所として疑っていたことが判る。US軍24師団はこのフングナムプラントの噂からここで原子爆弾の研究を行なっていたことは十分有り得ると言っている。
フングナムプラントから出される異常な廃棄物はソ連潜水艦により何ヶ月にもわたり採集されている。

戦争終了後、US軍24師団の取り調べ班の1人ダヴィッド スネル氏は日本人将校を取り調べた。「彼らは戦争終了の3日前、フングナムのある島で日本軍が小型原子爆弾を爆発させたと述べた。」とスネル氏は報告している。報告によれば日本軍はソビエトが来る数時間前に不完全な爆弾を含め、そのプラントを破壊してしまったらしい。

スネル氏の報告を受けアメリカは日本政府を再調査したがその事実は発見されなかった。スネル氏は将校が述べたことをもとに話してくれた。「B−29の京都爆撃のため研究所はフングナムへ移された。そのため日本軍の研究は3ヶ月遅延した。もし京都爆撃が3ヶ月遅かったら日本軍は原爆を完成していただろう。」

第2次大戦について研究している明治大学の歴史教師のアキラ ヤマダはフングナムに原子爆弾の研究所があったことは疑わしいと言っている。彼はその証拠は全く発見出来ていないと言う。そこで働いていた研究者やそのことを知る将校は今のところ誰も名乗り出てきていない。
しかしながら他の戦争兵器、化学兵器の証拠は明らかになっている。

しかし1945年4月の爆撃によりニシナ研究所が打撃を受けたことは明らかである。

それから4ヶ月後原子爆弾が広島に落とされた。サイエンス誌によれば、このときニシナは日本軍から爆弾の開発が6ヶ月で出来るかと尋ねられたと言っている。しかし広島原爆投下の数日後長崎に原爆が投下され、そして日本軍は降参した。

この爆弾で世界中の多くの人が恐怖を覚えたが、また多くの人が狂喜したのも事実だ。

西オーストラリア人がロス アラモス.ナショナル研究所のゲストブックに書いている。「広島に原爆が投下されたとき私は母や妹とジャワ当の捕虜収容所に居た。日本軍は報復として収容所の全員を船に乗せてジャワの海に沈めようとしていた。第2回目の投下で我々は助かった。ジャワ、スマトラやいたるところの捕虜収容所に罪もない女子供たちが拘留されていた。私は助かってとてもうれしかった。」


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