タイでクーデター勃発

今、日本の新聞でいろいろ書かれてますが今回のクーデターを賞賛するタイの新聞をそのまま訳しているものが多い。クーデター後、5人を越えて会合することは禁止されている。つまり酒の会合でも6人以上集まったら捕まる。当然、政党活動が禁止された。今、タクシン首相のタイ愛国党の幹部たちの多くはヨーロッパへ逃げてます。こういう中で非難できますか?

私の近くにTVニュースが使う運転手がいますがどこにも出かけない。何か事件があれば忙しい彼ですが暇。国内記事が1〜2ページいつもより少ない。

クーデター起こした軍人警察は民主主義改革委員会と名乗りました。しかし、まだ民主主義なんて雰囲気どこにも無い。

平穏です。しかしクーデターはそもそも武器を持って政権を奪うこと。そこには民主主義のカケラもないでしょう。だから国連総長や欧米はこのクーデターを非難している。日本外務省は良くわからんからか早く選挙してくださいと言っている。中国は在タイ中国人に注意を呼びかけている。

遅くても11月には総選挙があることになっていた。クーデターが起こったため1年間先に延びてしまった。民主主義で首相を選ぶ総選挙。それをクーデターで潰してソンティ将軍は自らを民主主義改革委員長と言っている。タクシン首相を「独裁者」と呼ぶなら彼らを何と呼べばいいのでしょうか?

タクシン首相は国民を苦しめていた分けではない。多くの支持者がいた。だから実際、次回総選挙も彼のタイ愛国党が勝つと予想されていた。しかし彼が首相になることを嫌う連中がいた。

クーデターの予兆と経緯

タクシン首相は4月の総選挙が王様に認められず、再選挙になった後、自分の身に危険が迫っていることを知り調査していた。

その証拠に反タクシン派と言われる王様のアドバイサであるプレム元首相(元将軍)宅で盗聴器が発見されている。タクシン首相は自分は命令していないと否定したが軍部の不穏な動きを調べようと側近の誰かがしていた。

6月中旬ごろタクシン首相が王様の威光を着た我々の敵がいるとラジオで発言。誰だろうと憶測が飛び交った。この人はプレム元首相のことかとマスコミはタクシン首相に尋ねたがタクシン首相は無言だった。このとき、マスコミは軍の高官の配置転換でタクシン派とプレム派で衝突があったと書いている。

プレム元首相は配置転換の意見の衝突をを競馬の馬に例えて話している。「我々軍隊は競馬の馬で、政府はその騎手だ。しかし彼らは我々の主人ではない。うまの主人は王様だ。」

その後クーデター計画があるとマスコミに流れた。しかしプレム派である最高指令官ソンティ将軍は否定した。

そして8月24日、タクシン首相の家の近くで爆弾を積んだ不審車が見つかり大騒ぎになる。マスコミはタクシン首相の自作自演ではないかと書いた。しかしながら軍から容疑者が捕まって行った。

タクシン首相は今まで反タクシン派の活動に寛容だったが、この事件で民間の反タクシン派の動きも警戒し圧力を駆け出した。TVでタクシン首相は彼が如何に危険を感じているか発言している。これを見て、タクシン首相を非難していたチュラロンコーン大学の教授たちが恐怖を感じてプレム元首相に会いに行っている。

そして9月19日タクシン首相がアメリカに行っているときクーデター発生。タクシン内閣の大臣たちの多くが海外逃亡。2人が拘束された。

9月21日の新聞にタクシン首相暗殺の容疑者が警察に「もし暗殺が失敗したらクーデターを起こす予定だ。」と国家安全作戦部隊のトップに言われていたと告白している。彼は8月に3回タクシン首相を殺そうとしたが実行できなかったと言っている。

そしてクーデター成功翌日、彼の暗殺の証拠は警察から消えてしまっていた。9月30日容疑者は釈放される。

タクシン首相について

 タクシン首相は2001年首相になってからIMFの借金を1年早く返したほか、OTOP(タイの1品1村運動)などで地方の経済を活性化した。特に地方でのタクシン人気は高まり、2005年の総選挙では下院の議席の80%近くを取ってしまう。このときタクシン首相は選挙のためタイ愛国党の会員組織を作った。それは北部、東北部、中央部の低所得者が主で1000万人を超えると言われている。

彼は全て自分で決めやってきた。2回目に首相に選ばれたときその傾向はマスマス強くなる。そしてそのやり方に彼を独裁者と呼び辞任を要求するタイ人が増えてきた。しかし弁護するなら彼自身は汚職するでもなくタイ国のためにやっている。事業で言えばバンコクの地下鉄開通、9月28日にオープンされるバンコク新国際空港など。彼が居なければもっと遅れていただろう。

 彼はまた貧困者や災害被害者(津波など)と良く会合した。今までの首相の中で一番一般庶民と触れ合った首相ではなかっただろうか。また村おこし100万バーツ基金など地方に税金を多く落とした政治家だった。だからタイの東北地方や北部の農民や低所得者層に絶大な人気がある。

またバンコクでもタクシー運転手やバイクタクシー運転手の低所得者たちに人気があった。低所得者の商売の儲けをピンハネするマフィアたちを取り締まったり、タクシーの購入を援助したからだ。マフィアのボスには警察官や軍隊関係者がいた。今まで警察が手を出さなかった犯罪組織が捕まるようになって行った。しかし相変わらず権力者や警察上層部の犯罪には完全には手がついていない。

彼は成果を重んじる人間だった。麻薬撲滅運動には警察が犯罪者を捕まえれば捕まえるほど報奨金が貰えるシステムを採用している。このとき1年間で2000人以上が死に人権委員会から批判されている。(警察が殺害したものは100名いない、ほとんどが仲間同士の殺し合いと言われている。)

タクシン首相が一番非難されたのがシンガーポールの通信会社に彼の一族のもつシン.コーポレーションの株を売り渡したことだ。この売買で一族は730億バーツ(2100億円)のキャピタルゲインを得たと言われている。タイでは外国からの投資を促進するため株の売買に税金が掛からない。それを利用して巨額な大金を無税でタクシン一族が手に入れたと非難が集中した。その後検察や税務署が入り一族はビジネスの申告漏れで約300万バーツの罰金が課せられた。しかし都市部のタイ人に取って、株のシステムを悪用した不遜な政治家に写ったようだ。

 この株売買については国家安全にかかわる通信事業会社も含んでいたと言うことで、その株が外国人が取得出来る49%以下か調べられた。しかしシンガポールの通信会社は問題ないと検察庁に資料を提出している。またあとで外国人取得の制限が40%近くに変更されたがシンガポールの通信会社は問題ないと言っている。

彼のタイ愛国党は汚職が多いと非難されている。しかし彼自身は汚職したと訴えられたことは無い。
彼の周りには居たようだ。タイでは権力をもつ彼らを司法で排除するのは難しい。そして国民はこの汚職疑惑の議員を選挙で排除できない。なぜなら彼らが比例代表制で選ばれてしまうからだ。タクシン首相の人気でその汚職疑惑の党員たちが国会議員になれるのだ。

 タイの王様

1992年からタイの民主主義は始まったと言われている。それまで総選挙で選ばれた者が首相になったことはあったがクーデターで潰されていた。またその選挙は票買いで行われていた。貧しい地方では票を売ることが普通のことだったのだ。そして選挙で選ばれた者は汚職や不正を行った。上に立つ者で不正をしないと信じられる者は王様だけだったろう。

1992年、民主主義を要求するバンコク市民や学生たちと軍が衝突した。そのとき調停に立たれたのが王様だ。政治的なことに口出されたのは始めてのことではなかったろうか。内容を聞くとアドバイスの形を取っておられる。軍に引けとは直接おっしゃってない。事態を解決するためお互いに話し合えとおっしゃっただけだ。このときスチンダ将軍は王様の前でひれ伏し軍を引き上げた。それが王様の偉大さを国民に認識させ尊敬は増した。そしてこのとき王様のアドバイザはプレム元首相だ。だから彼も国民に人気がある。

1992年以降選挙管理や汚職監視が強化された。そして1997年、新憲法が出来る。1度汚職や違法行為を行った者は5年間政治活動は禁止されるなど従来より厳しい。マスコミも総選挙のとき各地方で不正が行われるようすなどを特集し、それは選挙不正防止に役立った。しかし完全に票を売る悪習慣は無くならない。また選挙管理や汚職監視する組織自体にワイロを目こぼしする者もいた。

タイに不敬罪がある。なん人たりとも王様はおろか王家の悪口を言うと罪になる。だから王様のすることに反対できる者はいない。軍隊も命令系統のトップにいる王様に逆らえない。王様はそれを悪用はされていない。むしろそれは未熟なタイの民主主義に役立っていた。

タイの政治家や上に立つものはその地位を悪用しているものもまだ多い。タクシン内閣の運輸省大臣が汚職しているとして告発した国家会計委員長がいた。国家会計委員は上院や下院の議員の投票で選ばれる。このときタクシン与党は投票をやり直し会計委員長を追い出そうとした。しかし出来なかった。王様が変更リストに「変更理由が分からない。」サインされなかったからだ。

タイの場合、政治権力を握ると司法権力や治安のための警察権力を握ってしまう。だから政治家や権力者が不正をやっても罰せられないことが多い。タイの民衆に取ってそのような悪政に目を光らせてくれるのがタイの王様だ。民衆がこれらの権力者に立ち向かうとき必ず王様の写真を掲げている。

タクシン首相と軍の確執

2001年タクシン氏が首相になったときから確執が始まったと思われる。この年にマエサイ地区がミャンマ軍から砲撃を受け、タイ側で死亡者が出たことがあった。それに対しタイ軍も砲撃を返した。しかしこれはタイ政府が認めたものではなかった。タクシン首相は後に軍を責めたが、緊急処置として許されるものだったと後で認めた。

しかしながら軍の勝手な行動はタクシン首相を悩ますものだったようだ。

その後、タクシン首相は自分の身内や学友だった者を軍の重要位置に配置しはじめる。このときマスコミから自分の権力を増大させようとしていると批判されている。そして軍に人事に口をはさむ総理は今までいなかった。

南部タイの独立分離派が陸軍の武器庫を襲い4人の兵を殺害する事件が起こった。これに対処するよう選ばれたのはタクシン派の将軍だった。彼らは独立分離派を討伐しながら南部タイを沈静化しようとした。

しかしこのような中、2004年最悪の事態が発生する。イスラムの暴徒を鎮圧した軍が捕まえた容疑者を85人を刑務所に運ぶ途中窒息死させてしまう事件が起きたのだ。タクシン首相と当時の軍司令官は当然強く非難された。

2005年に入り再選したタクシン首相は南部タイのテロ活動に支援する者に圧力を掛けようとする。村を支援する者としない者とで色分けし、レッド(危険)地区の者には全く政府からの援助をしないと言うものだった。しかしこれは人権団体などから世界的な批判を浴びて頓挫してしまう。

その後南部タイはマスマス混迷して行く。そういう中、枢密院のプレム元首相(軍人)から強い推薦でサンティ将軍が軍の最高司令官になる。サンティ将軍はイスラム教徒でイスラム教徒の多い南部タイを沈静化できるのではないかと期待された。

しかし期待した通りには行かなかった。南部タイのテロ活動は教師や医者までターゲットになって行く。

成果がでない中で軍と政府の間で人事配置リストが話し合われた。いったん合意されるが8月タクシン首相暗殺事件が起こる。これで再考される事態になってしまう。

8月、9月には22銀行爆破事件、そして今までテロ活動のなかったハジャイで爆弾が爆発し観光客に死傷者が出てしまう。タクシン首相はサンティ将軍と話合ったが対策についてはサンティ将軍が発表している。

このときハジャイの爆弾事件の負傷者のところに皇太子が慰問に訪れている。いままでこのようなことはなかった。プレム元首相が民衆の非難を静めるため考えたのかもしれない。

そしてタクシン首相は国連出席のためニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後はインターネットを使い閣僚会議をやっていた。そして誰も予期しなかったクーデターが起こった。

 

クーデター軍がまず行ったのは政府人事ではなく、軍隊の人事でした。タクシン派の一掃です。「タクシンは軍に毒を盛り込んだ。」と彼らは言っている。

政府人事も民間から首相を抜粋するつもりが出来なかったようです。一時WTO元理事のスパチャイ氏の名前が出ていたが結局スラユット元将軍がなるようです。

いつになったら道路から兵隊たちが居なくなるのでしょうか?マスコミは戦車などが市民に恐怖を与えていないと報道していますが遊び道具ではない。火器を持った兵隊たちの早期撤退を民間団体が求めています。

王様を尊敬する市民は多いがクーデターを望んだ市民はいない。国民の支持が無いまま彼らは民主主義改革を名乗り新しい憲法を作っている。彼らの政府が約1年間政治運営をするが上手く行くのでしょうか?

マスコミはクーデターで団結が強まったと報道しましたが、タイ北部ではクーデターに反対する放火が発生している。南部では相変わらず警察署が襲われた。バンコクでもクーデターに反対するタクシー運転手が軍の戦車に体当たりする事件が起こっている。(軍は酔っ払い運転と発表)

政治の混迷を無くすためクーデターを起こしたというが軍を道路から引き上げられるのか?治安維持するため引き上げられないのではないか?

確かに血の流れていないクーデターだったがこれからがどうなるのでしょう?1990年代はバンコクの学生、市民たちが民主主義を導いてきた感があった。だから軍はバンコクを抑えれば治安を維持できていた。民主政治が15年続いたせいで地方にも民主主義は着実に広がっているようです。


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